文:ルイス(Read in English)
訳:スナイダー・オリビア
映画が始まり、俳優ペドロ・パスカルがスクリーン上に現れた瞬間に、映画館の前の列に座っていた男性が「カッコイイ...」と呟いた途端、この映画は本当に特別だなと感じた。
リドリー・スコット監督の『グラディエーターII英雄を呼ぶ声』は、ノスタルジアを上手く利用したただの高価な粗悪品ではない。オリジナルの『グラディエーター』でラッセル・クロウが演じるマキシマスが視聴者の心をつかんでから24年も経つが、今回の続編映画は20年以上前(私の場合は先週だけど)に私たちの興味を惹いたあの古代ローマの世界に新たな活気を与えている。
映画館の照明が落とされた瞬間、この映画の特殊性にグッときた。気骨ある、カオスある、視覚的に美しい:これらの特徴を全て活かす作品だ。一番感動した特徴は映画のデリケートなバランス感だ——オリジナルの映画に敬意を表すると同時に、新鮮に感じる新たなストーリーを描いている。
オリジナル映画を思い出させる場面は数々ある:マキシマスが着けていた鎧と剣、「私たちが人生で行うことは、永遠に響き渡る」と言う名台詞、そして『グラディエーター』に登場したルッシラとグラックス議員のキャラクターも再び登場する。ポール・メスカルが演じる主人公ルシアス・ヴェルスは、マキシマスがローマ帝国の汚職に疑問を投げかけたように、退廃と戦う似た道を歩みだすが、全く異なる方法でやる。マキシマスは報復のために戦い、マルクス・アウレリウスの「真のローマの夢」を築こうとしたが、その一方でルシアスは死んだ妻のあだを討つことが唯一の目的だ。映画の大半ではルシアスはこの明確な目的に動かされる。映画の結末では祖父の夢を継ぐことにするが、その理由は今までその夢に刺激を受けたことではなく、ローマの現状の悪化を実際に経験してしょうがなく引き継いだように感じる。ルシアスの物語はむき出しの感情と個人的な困難を全て含めるからこそ、マキシマスとは別の存在だと思える。

出演している俳優たちも素晴らしい役者ばかりだ。映画の重要なキャラクターを演じる俳優はポール・メスカル、ペドロ・パスカル、デンゼル・ワシントン、コニー・ニールセン、ジョセフ・クイン、そしてフレッド・ヘッキンジャーを含む。彼らはありえないほど壮大な映画の世界で、深く痛ましいほど人間的に描かれているローマ帝国に足を踏み入れている。これはノスタルジアだけに頼った映画ではなく、内容を真剣に受け止めることを要求する、独自の壮大な物語を作り出している作品だ。
本質的には、この映画はオリジナルの『グラディエーター』が描いた「ローマの夢」に対する深い反省であり、それは常に単なる政治的建前ではなく、生きて呼吸する理想であったことを主張している。オリジナルでは、マキシマスはローマ最大の将軍であるにもかかわらず、軍事機構としてではなく、正義、尊厳、そして体制的抑圧の上に立ち上がる個人の偉大さの可能性を約束するものとしてローマを体現していた。彼の「私たちが人生で行うことは、永遠に響き渡る」と言う名台詞はただの個人の信条ではなく、帝国権力の概念そのものへの挑戦だった。

この新しい『グラディエーターII』は、その哲学的レガシーを引き継ぎ、ローマが象徴するものとは単なる帝国ではなく、人間の可能性の夢だとより深く掘り下げている。オリジナル作ではコモドゥスを通してローマの腐敗が描かれたが、この続編は、立派な帝国を遊び場に変えてしまった双子の皇帝ゲタ(ジョセフ・クイン)とカラカラ(フレッド・ヘッキンジャー)に押しつぶされ、衰え続けているローマを深く描いている。
映画はどのようにこれを果たしているのか?
双子の皇帝はコロッセウム(大闘技場)を暴力のサーカスに変え、名誉というものを全て投げ捨てている。ペドロ・パスカルが演じるアカシウス将軍の命をルシアスが助けた後でも、皇帝たちは彼を処刑する。このような行動は彼らのせこい性格を描いている。しかし、最も滑稽な瞬間とは、カラカラがペットで飼っている猿をローマの初代執政官に任命する場面だ。彼らは政治システム全体をただの冗談として操っている。彼らにとっては人の命などどうでもいいものなのだ。人間は彼らの歪んだゲームの使い捨ての駒にすぎない。権力のみが目的で、それ以上の目的や夢は何もない。アカシウスが 「皇帝たちの虚栄心のために人の世代を無駄にする 」ことを拒否するのも無理はない。

ペドロ・パスカルといえば、彼とポール・メスカルの二人組はラッセル・クロウが誇るべき素晴らしい演技を披露し、この複雑な世界をナビゲートしている。彼ら、そしてすべてのキャストが、単純な復讐劇になりかねないこの作品に深みを与え、その代わりに組織の腐敗、個人の名誉、そしてどのキャラクターよりも大きな集団の夢についての重層的な考察へと変えた。
間違いなく、マクリヌスを演じたデンゼル・ワシントンも素晴らしかった。多くの視聴者や『グラディエーター』ファンも同感だ。 彼はどのシーンでも彼特有の重々しさと威厳を発揮していた。彼のキャラクターは物語の中で大きな役割を果たし、指導者であると同時に裏で糸を操る権力者でもあった。しかし、正直に言うと「デンゼルらしさ」がはっきり演技に出ていた。それは決して悪いことではないが、彼の自然なカリスマ性がマクリヌスを魅惑的な登場人物に変えたとしても、完全にその配役に身を投げ込んでいたとは感じなかった。俳優が演じる役のために変身したのではなく、その役が彼のために作られたように感じる。例えば、マクリヌスが「彼(ルシアス)にホースで水をかけろ」とトレーナーに命令する場面がある。普通なカッコイイ台詞ではあるが、「ホース」といった装置は17世紀まで発明されなかったため、そのようなフレーズはきっとローマ帝国の言葉では存在しなかったでしょう。それが「デンゼルらしさ」だ。そうは言っても、コロッセウムのシーンでサイに乗るグラディエーターやサメまで登場するこの映画では、そこまで歴史的正確性を批判するべきではないかも...

マクリヌスのキャラクターは映画のストーリーの多くの展開を前に進める重要な人物だが、映画の中心主人公は間違いなくルシアスだ。ポール・メスカルはこの作品のスター:彼が演じるルシアスは、ラッセル・クロウのマキシマスが残した期待に応えている。ルシアスの悲しみ、怒り、内なる葛藤を全て感じさせ、弱点と迫力を上手く混ぜながら複雑なキャラクターを描いている。妻の死の悲劇にとらわれる静かな場面からコロッセウムでの爆発的な戦いのシーンまで、メスカルはスクリーンを支配している。ルッシラが初めてルシアスの監房を訪れるシーンでは、彼の繊細な演技がはっきり見えてくる。真の母であるルッシラは10年以上も前にローマから追い払った少年に償いをしようとするが、現在のルシアスには、あの過去の少年の気配は残っていない。
映画のアクションシーンも息をのむような迫力だが、決してただの面白い情景ではない。各戦闘、各対決、全てのシーンが意味を持つと感じた。映画の序盤から、海上戦、空飛ぶ火の玉を放り投げるトレビュシェット、軍団兵が戦い合う攻城塔などを含むエピックなバトルが描かれている。

グラディエーター同士の戦いはただのサバイバルのためではない:「戦う」ということは弾圧に対する抵抗を象徴するものだ。ヒヒとの戦いでは、ルシアスは生き残る力を試されるためだけではなく、観客の前で屈辱を感じるためにアリーナに放り込まれる。彼は非力でただの娯楽のために存在する人間に見えるよう、この戦いは設計されている。しかし、驚きの展開でルシアスはヒヒの脚を嚙み砕き、激しくその息の根を止める。残忍なシーンでもあるが、これは彼なりの「俺は倒されない」伝え方だ。彼が挑む戦いは、単に戦いそのものではなく、自分を潰そうとする体制に対する反撃なのだ。グラディエーターたちがぶつかり合うとき、彼らは自分の命以上のものを賭けて戦っている。ルシアスは、彼らの戦いがローマの将来を賭けたものであることを前提に、映画の最後の戦いのために彼らの熱意を奮い立たせている。

この映画は視覚的にも傑作である。撮影技術は古代ローマの残酷な壮大さと、この大作に魂を吹き込んでいる親密な人間関係の両方を捉えている。すべてのフレームは絵画のように感じられ、すべての戦いのシーンは人間の意志と機械の残虐性の複雑な踊りである。この映画は修羅場(例えば、サイの角に男が突き刺される残忍なシーン)から逃げないが、ルシアスが医者に手当てを受けるような穏やかな瞬間もあり、そこでは稀に見る脆弱性を垣間見ることができる。カオスの最中にあっても、カメラはこうした静かな瞬間の余韻を残し、戦いの背後にある個人的な利害関係を思い起こさせる。壮大なスペクタクルと親密で人間的な瞬間のこのバランスが、この映画を視覚的に魅了し、感情的に共鳴させるのだ。
しかし、私にとってこの映画を真に高めているのは、その哲学的支え柱である。これは単なる続編ではなく、権力、自由、そして文明が建国の理念を忘れたときに失うものについての深い論評なのだ。繰り返し語られる 「ローマだった夢 」というテーマは、単なるキャッチーな台詞ではなく、この映画全体の中心となっているのだ。マクリヌスが想像するローマは、他の人々が抱いている自由で気高い帝国という理想主義的な夢とは正反対である。彼にとってローマの偉大さとは、その壮大なビジョンでも、守るべき人々でもない:操れる権力である。ルシアスや祖父マルクス・アウレリウスのような人々が、自由と正義の場所としてのローマの夢を持ち続ける一方で、マクリヌスはローマがどのようになってしまったかの現実を見抜いている。それとは、途中で誰が踏み潰されようが、摂取し続ける機械だ。

マクリヌスとアカシウスは異なる立場を取るが、考え方には共通点があった。アカシウスはこう告げている:
「庶民が自由でなければ、ローマの夢とは一体何だ?」
この映画は、講義のように感じることなく、これらの巨大なアイデアを探求している。優れたストーリーテリングとは、メッセージを直接伝えることではなく、私たちに深く考えさせ、感じさせ、複雑な人間的体験を見せることだと理解しているのだ。
最も印象的なのは、この映画がオリジナルの作品に敬意を払いつつ、まったく新しいものを作り出していることでしょう。しかし、映画公開後の批評やレビューを見ると、私が少数派であることは明らかだ。あるフォーブス誌の記事(英語のみ)では、次のとおり厳しい批評が書かれている:
「ストーリーはオリジナルの作品とほぼ変わらないが、面白さや感情的なインパクトは遥かに弱い(オリジナルこそその点で完璧だったわけではない)。では、続編はこのコロッセウムの世界に一体何を付け足しているのでしょう?その答えは 『何もない 』と言えるところだ。いや、『何もない』よりも最低だ。」
オリジナルと続編の2作の類似点は認めるが、『グラディエーター』をただ懐古的に焼き直したのではなく、思慮深く進化させたものだと主張したい。オリジナルの『グラディエーター』のファンにはお馴染みのテーマが見つかるでしょう:組織的抑圧に対する個人の尊厳の探求、個人の誠実さの代償、権力の複雑な仕組み。オリジナル作品のDNAは間違いなく続編に跡を残している。しかし、『グラディエーターII』を初めて観る人は、オリジナルの予備知識を必要としない、完全に独立した魅力的なストーリーを発見するでしょう。

最後に伝えたいことはこれだ:ストリーミングはこの大規模の映画には絶対に相応しくない。戦闘シーンの轟音、美しい撮影の緻密なディテール、真に非凡なものを体験した観客の息をのむような総立ちなど、この映画は映画館でしか体験できない没入感を要求するシネマチックなイベントである。私の場合は、映画館内で「カッコイイ」と呟く大人の男性の感動まで聞ける素晴らしい映画経験だった。
この映画を絶対に観に行くべきだ。私がそう言っているからではなく、このような映画は滅多にないからだ。『グラディエーターII』は単に物語を続けるだけでなく、伝説を育てている。そして伝説とはただ聞くだけでなく、体験すべきものなのだ。
スコア:90点

写真提供:Paramount Pictures
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