【ネタバレレビュー】『Shogun 将軍』第10話「夢の中の夢」

文:ベンジャミン・ローズ (Read in English)

訳:スナイダー・オリビア

『SHOGUN 将軍』は、ようやく終わりを迎えた。フィナーレエピソードには予想外の部分もあるが、このシリーズの偉大さを肯定する、悲歌を聞くような最終回である。虎永の勝利への道が明かされるなか、各人物は自分の運命と向き合う。

スコア

第10話:100点満点

シリーズ平均:94点

爆破の後は…

第10話は、寝たきり老人になったブラックソーンが、鞠子の十字架を手で握る姿に幕を開ける。彼はイギリスに帰っている。すっかり老けてしまい、半分老人性容貌のブラックソーンのそばには幼い孫息子が二人いる。孫は「おじいちゃんが日本人の暗殺者をやっつけた」時に欠けた刀など、祖父が東洋から持って帰ってきた戦利品を興味津々と眺める。だがこれはただの夢だ。現実の1600年では、ブラックソーンは大阪城の貯蔵室の床で気を失っている。気が付くと、虎永の側室達は鞠子の死体の側で嘆き悲しんでいる。ブラックソーンはそっと彼女の遺体を抱くが、鞠子は目覚めない。トラウマを受けた藪重は、「お許しくだされ」とそっと呟く。

その後、政治的な問題が頂点に達する。桐の方と静の方は、残った虎永の家臣と赤ん坊の息子と共に大阪城を出る。虎永は鞠子の死に抗議して江戸を抜け出し、戦の支度をしていると知る大老衆に、石堂は出陣するべきだと伝える。世継ぎの御旗も戦に加わり、虎永が謀反人となることを落葉の方は肯定する。

再びキリシタンの大老に囚われたブラックソーンは、死の標的となっている。鞠子の葬式の翌日、脳震盪から目覚める按針は木山の家来に大阪の港へ行けと命じられ、殺されることを待ち受ける。だが彼に死は訪れない。マルティン司祭は鞠子の最後の告解でブラックソーンの命を助けると誓い、教会に按針を生かせるよう説得したが、その救われる価格はブラックソーンはまだ理解していない。按針は港行きの森の中の道で、いつも良いタイミングで現れる「盗賊」に殺されるはずだったが、今回は無事に港に到着し、藪重と女達と再会し網代に向かって出発する。

藪重の最低、最悪な日

第10話では、浅野忠信に藪重のマニアックなカリスマを演じる最後のチャンスが与えられる。「マニアック」とは、忍びの攻撃の後の藪重のこと。彼の姿はいつもの薮重ではない。迫ってくる自分の死を恐れ、必死で土壇場の策略を考えようとする薮重は、池に存在しない鯰を捕まえようとするなど、幻覚を起こしている。これこそ「わしは立つ瀬がない!」と言うべき瞬間だ。自信満々の藪重の存在は消えた。

藪重は網代に戻り、戦の準備をせよと石堂に命じられるが、彼の生きる日々は残りわずか。チーム虎永が網代に帰り、ブラックソーンの命と引き換えにエラスムス号がポルトガル人に焼かれたことを知って藪重の迫る運命も明らかになる。更に必死になってきた藪重は、按針に飛び込みを指南してくれと、一緒に海に出てイギリスに行こうと、無意味な提案をするが、ブラックソーンはただ首を振って「しっかりしろ」と大人しく伝える。按針の命は助かるが、日本で自分の夢を叶えることは既に諦めている。

藪重にもいよいよ終わりを迎える時がきた。網代に到着した直後に、藪重は虎永の侍に逮捕され、央海から全ての情報を聞いている殿の前に連れ出される。貯蔵室で鞠子の霊から許しを請うところを目撃された藪重は、自分の裏切りをその場で確認した。皮肉なことにそれはシリーズの中で藪重が反省した唯一の瞬間。今回こそ、最後の遺言を書き換える時だ。切腹よりも「面白い」死をくれと殿にねだる乱心者のような藪重は、浅野忠信の最高の演技だ。

「その教えもこれにてしまいじゃ」

藪重が死刑執行に行きながらも、その目覚ましいカリスマ性を保っているのは、浅野忠信の喜劇役者としての才能の証であり、あまりにあっけらかんと滑稽で動揺しているため、彼を応援せずにはいられないし、同時に敵視することもできない。第4話のレビューでは、藪重は最後まで生き残るが、最終的に虎永に殺されることを私は正しく予想していた。藪重の終わりは半分笑えて、半分悲惨なところもあるが、小説で起きる藪重の切腹よりはシリーズの方がそれを高めている。

ジェームズ・クラベルの『将軍』では、央海と藪重の関係はもっと敵対的である。小説の藪重は央海に裏をかかれ、樫木家の権力が奪われることを恐れる。央海が藪重の裏切りを虎永に明かすと、藪重は切腹せよと命じられ、央海に介錯される。だがFXのシリーズでは、央海が藪重の裏切りの行動をばらした理由は個人的な昇進のためではなく、道徳的義務を果たすためである。藪重が死ぬ前に、甥よりも息子のように思っていたと聞く央海は、叔父が死んだ後に静かに涙を流す。ブラックソーンに介錯されることを要求し拒否された後、藪重は虎永に直接介錯されることを頼み、このシフトによって藪重の切腹は小説のさらに重要なシーンと融合することになる。

アイ、虎永

小説の『将軍』では、虎永は東海道を進軍し、石堂と合戦する準備をするなか、彼の内的独白によって読者は虎永の本当の計画や意志を知り、そこでストーリーが終わる。虎永は将軍の称号を敬遠するどころか、心の中で生涯、美濃原(つまり源)としての生得権、将軍の座に就くことを切望し、それに向けて戦ってきた。彼はポルトガル人とキリシタンの大老を満たすため按針の船を焼いて壊し、鞠子の犠牲によって大老衆と落葉の方は石堂との盟約に嫌気がさした。 殿のために見事に死ぬことが鞠子の運命であり、按針が日本を離れることはなく、虎永が将軍になることがずっと彼の運命だった。

マーティン・スコセッシの映画『沈黙ーサイレンスー』に登場する日本人キリシタンの迫害や、徳川家康の後者に課された鎖国政策など、虎永が将軍となるその暗い結果は流石に小説やシリーズでは描かれていない。歴史の研究者であり、第二次世界大戦中に捕虜としてチャンギ刑務所に収容された経験を持つ作家クラベルは、虎永の国家再生のプロジェクトを、日本人を悪者にしようとする人種差別的な意図からではなく(彼はこの小説を「熱烈に親日」と評している)、明らかに辛辣でナショナリスティックな言葉で表現している。しかし、おそらくは日本、日本国民、日本文化を、本質的に道徳的なグレーな存在として描き出そうとしたのであり、人間の矛盾や、「敵」として20世紀の日本軍国主義に直接遭遇した彼は、その倫理観に感心こそすれ、理想化しようとはしなかったでしょう。

大した策士

小説での内的独白は、シリーズでは藪重の切腹の場面で虎永との二人の対話によって描かれている。虎永は依然として「戦のない太平の世」の日本の黄金時代を作ろうとしているが、藪重はそれがすべて偽善に基づく見せかけのものであったのではないかという疑問を鋭く問う。虎永の夢とは、国家の利益と個人的な全権力と栄光の達成を全て手に入れる夢である。この夢を掴むために何人もの人が死んできた。果たして虎永は、啓発された専制君主なのか、それとも単なる専制君主なのか?日本を奴隷にする者なのか、それとも解放者なのか?

虎永はこう答える:今から1ヵ月後、虎永の軍勢は関ヶ原で石堂の軍勢と相まみえることが決まった。だが落葉の方は秘密でお世継ぎの軍を戦場に出さぬと虎永に誓い、その結果石堂家はその場できっと破滅する。法律上の正当性がなく、鞠子の死の記憶がまだ新しい大老衆たちは石堂に反旗を翻し、虎永の勝利は最初の刀が抜かれる前に手に入るものでしょう。

シリーズでは、小説に書かれている石堂の悲惨な運命は省かれている:虎永は彼を首まで埋め、風雨に晒したまま死に至らしめる。しかし、藪重の反対意見によって、私たち視聴者はやっとその隙間から覗くことができる。虎永は世継ぎをただ支持するわけではない。現実のように、そして小説の中で彼が予言するように、最終的に彼は世継ぎを殺すのだろうか?今はわからない。だが、虎永は藪重の主な主張を否定しない。彼がついに意見を変えたのか、それともずっと嘘をついていたのかに関わらず、虎永は絶対に将軍となる。

彼は常に権力を掌握するつもりだったのか?私たちはずっと騙されていたのだろうか?そうかもしれない。だからこそ、網代の海岸で壊されたエラスムス号の残った部分を引き揚げる按針に向けてうなずくシーンでは、シリーズの最後まで虎永が不可解なままであることがふさわしいフィナーレ。第10話のラストショットは、「大した策士」が遠き雲を眺める後ろ姿であり、彼の「胸の奥に秘めたお心」は、永遠に彼だけが知っているものとなる。

夢の中の夢

「値打ちがあるからではなく、(殿を)笑わせる」から、ここまで生き延びてきたブラックソーンはどうなるのか?このエピソードで、虎永がエラスムス号を壊した「キリシタンのスパイ」の疑いで網代の村人数人を処刑した後(これは虎永自身が命じたことであり、 なぜ実際に彼らを殺したのかは誰にもわからない理由がある...)、ブラックソーンは虎永の不正義に抗議して切腹すると脅し、実際に虎永が彼の手から脇差を叩き落とす前に、自分の腹を一瞬傷つける。「気が済んだのであれば、あの船を建て直しわしのために水軍をつくるがよい」と虎永は伝え、ブラックソーンの背中を叩き、網代の村民への迫害を止める。皮肉なことに、シリーズで最も不条理な瞬間のひとつである。この最後の責任試練によって、ブラックソーンは利己主義、日本を「利用する」という願望、そして一生後悔する故郷に帰るという空虚な夢を捨てた。

エピソードの終わりでは、藤とお別れしたブラックソーンと、村次、網代の村民、そして仲直りできた文太郎が残ったエラスムス号を海の底から引き上げる。按針は虎永に向けてうなずき、ここで『SHOGUN 将軍』のストーリーは終わりを迎える。

関ヶ原の戦いは描かれず、その決断によってこの結末は賛否が分かれるだろうが、全体的に私は完璧だったと思った。紅天はすでに第9話で終わっている。『SHOGUN 将軍』は終わったが、徳川幕府の黄金時代(そして願わくばエミー賞も)は始まったばかりだ。どんな作品でも、たとえ名作であっても、完璧なものはない。しかし、シーズン半ばの短い落ち込みにもかかわらず、『SHOGUN 将軍』は名作であり、短期間での栄光ある、記念碑的な勝利として記憶されるだろう。そして今は、夢の中の夢のように、それはそっと消えてしまった。「風なお吹きて花は花なる。」

写真提供:FX

ベンジャミン・ローズはワシントンD.C.出身の詩人。「エレジー・フォー・マイ・ユース」と「ダスト・イズ・オーバー・オール」を2023年と2024年に発刊。アメリカカトリック大学で英語学を専攻し、2023年にオへーガン詩賞を受賞。2019年から「ザ・パス」のブログを編集している。彼の本はこちらから購入可能。

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