『将軍』(1975年)第36章~61章(終)
スコア:65点
パート1+2平均スコア:70点
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「素晴らしい」が「まあまあ」に⁈
「小説の方が映画版より面白い」という考え方は、ドラマ・映画化された小説やシリーズに関しては昔から主張されている意見。しかしこれは100%正しいわけではない。スタジオジブリ作の『ハウルの動く城』のストーリーは原作であるダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説と大きく異なるが、多くのハウルファンは小説よりも宮崎駿監督の映画の方が好きだと意見を述べている。世界的に愛されている『ロード・オブ・ザ・リング』のフランチャイズも同じく、古くて長い小説よりもピーター・ジャクソンの映画の方が人気があると思われる。ゴールデングローブ賞やエミー賞を数々受賞している大人気のFXドラマシリーズ『SHOGUN 将軍』となると、小説とドラマの好みは各ファンによるが、多くの視聴者(特に日本人)は小説よりドラマ版の方が好きみたいだ。

ジェームズ・クラベルのオリジナル小説『将軍』(1975年所載)は1,100ページを超えるかなり長めの小説。テレビシリーズに比べて各登場人物をより深く描き、シリーズでは観れなかった内面的な独白やバックストーリーと対話はあるが、客観的に小説を読みたくてもどうしてもテレビシリーズに比べてしまう。シリーズで一番テンションが上がったシーンは小説でも同じくハイテンションだが、全体的に小説はドライで読みにくい部分もあった。正直に言うと小説の『将軍』は良い小説だが、テレビシリーズの素晴らしいストーリーとインパクトがあまりにも印象的だったため、小説を読んでいる間はシリーズの魅力しか頭に浮かんでこなかった。
語学的な過ち
日本語のネイティブスピーカーとして、小説の酷い日本語ミスや、対話に使われるわざとらしい日本語のフレーズを読んでいるとどうしてもイライラしてくる。日本人の登場人物は各文章の終わりに「ーね?」と言うように書かれているが、この話し方はナルトがいつも「ーだってばよ!」と言っているように、子供が使いそうな不自然な日本語。「ーね」は実際に日本語で使われている語尾ではあるが、小説での不断な使い方は非現実的だ。現代の日本では幼児が普段使っている語尾だが、多くの大人は会話では使わない。『将軍』に登場する高貴の生まれの大人が、昔の古い日本語を話しているはずなのにフォーマルな場面でこんなに頻繫に「ーね」を使うとは、非常に非現実的。これはあくまでも英語で書かれている小説の大きなミスだが、クラベルは読者に「このキャラクターは日本人だよ」としつこく伝えているかのように書かれている。

その他の言語ミスといえば、小説の英語版では「so sorry」(「すみません」)のフレーズもしつこく使われている。ある場面では、桐の方が虎永様宛に書いた手紙には虎永のことを「とらちゃん」と書いている(日本国語大辞典によると「ーちゃん」を名前に付けることは1800年代から始まった)。多くの日本人同士の対話のシーンでは、クラベルは先に文章の日本語を全てローマ字で書き、その後に英語の文章を書いている。なぜこのように書いたのかは分からないが、ローマ字をわざわざ読むのは面倒くさくて必要ないと思った。ローマ字がなかった方がよりスムーズに小説を読めたと思う。
オリエンタリズム(東洋主義)の変化
とはいえ、クラベルが描く日本は封建時代のロマンチックな想像ではなく、より正直な描き方だ。日本で起きる残虐な行為、政治的陰謀など、悪いところも良いところもしっかり平等に書いている。イギリス人であるクラベルのバックグラウンドとこの小説を書いた時代を振り返ると、この正直な描き方は驚くほどだ。主人公のジョン・ブラックソーンは不思議な東洋の世界ではなく、残酷で見知らぬ土地に辿り着いてしまう。一つ良かったと思った点は、小説の後半ではブラックソーンは日本語能力を向上し、毎日日本という国について新しいことを学んでいるが、日本文化のミステリーをやっと理解できたと思った瞬間にまた訳が分からない疑問が出てくることだった。日本にいる外国人の経験と気持ちを、現代の人でも納得できるように正確に描いている。

「日本のことは日本のやり方以外では解決できませぬ」
鞠子(第39章)
クラベルの小説は差別的でもなく、西洋の方が上だと主張している特徴もない。実際に第二次世界大戦で戦い、捕虜として日本に囚われた人間が、日本やアジアに対する固定概念や人種差別的な言葉と表し方を使わずにこの小説を書けたことは素晴らしいと思う。他の西洋の作品が描く日本と違って、クラベルはより正確に封建時代の日本を描いている。一つの印象的だった場面は、ブラックソーンがうたかたの世にいる時に、イギリスにある自分の地元を思い出しその汚い生活と汚い人間を、目の前にいる鞠子とお菊の清潔感に比べるシーンだ。日本の人は毎日風呂に入って体を洗う文化でいつもきれいなのに、なぜイギリス人はいつも汚いのだとブラックソーンは頭の中で嘆く(第40章)。「アジア系の女性はいつも清潔だ」のような気持ち悪い固定概念ではなく、この場面はブラックソーンが自分の馴染みあるイギリス文化と中々慣れない日本文化を振り返ってどう比べているかを表している。
ストーリーの復習
文太郎とブラックソーンの酔っぱらった喧嘩(第5話)の翌日、虎永は樫木の男に簡単に操られた息子の長門(小説では「長」)を厳しく𠮟る。ここで虎永は家臣を自分の愛する鷹に比べ、どのタイミングでどう攻撃するかをじっくり考える。

大阪にいる桐の方から手紙が届き、虎永の異父兄弟である佐伯(小説では「ザタキ」)が大老衆の一員となったことを報告する。ここで小説とシリーズの大きな違いが出てくる:シリーズでは佐伯は虎永と合流し、味方のふりをしてから晩餐会で裏切りを明かすが、小説の二人は元々より敵対的な関係を持つ。虎永は平静さを失わなくもないが、ザタキが石堂と手を組み、亡くなった杉山の席を奪う行動に対してはあまり驚いていないようだ(第7話)。
続いてうたかたの世のシーン(第6話)が登場する。小説の会話により、より女中のお菊と茶屋のお吟(小説では「ギヨコ」)のことを知ることができる。この小説の部分はシリーズの第6話のシーンとほぼ変わらない(シリーズでは枕を交わす時に使う性具は登場しないが...)。

続いてストーリーはまたシリーズから大きく異なる:虎永の息子の長門は佐伯を暗殺する計画を立てず、そのため茶屋で足を滑らせて死ぬこともない。小説の長のインパクトはシリーズの長門ほどではないが、小説が終わる時点ではまだ生き残っている。シリーズでは長門の死(第7話)が紅天と虎永の勝利の鍵になった重要な出来事だったため、小説を読んだ時は長が死なないと知り、驚いた。
三つ目の大きな変化:戸田広松もなんと死なない。シリーズでは広松は虎永の勝利を決めるために家臣の前で切腹(第8話)をするが、このような場面は小説には出てこなかった。虎永が諦めて降伏するように見せるため、シリーズでは広松の切腹は必須だったが、小説には長門と同じく驚きの死のシーンは出てこない。

紅天は、小説とシリーズはほぼ同じ。鞠子は大阪城に到着し、桐の方と静の方を連れてお城から出ることを石堂に要求する。出発が拒否される鞠子は、虎永様の命令に従うことができず、しょうがなく切腹をすると誓う。鞠子の切腹はギリギリの時点で石堂に止められ、お城内では石堂に囚われていた大老衆の家族がやっと解放されることを祝う(第9話)。しかし、ここで裏切り者の藪重(小説では「藪」)の協力により忍者の暗殺者が城の中に忍び込み、戦いの真っ最中に鞠子は爆弾に殺される。愛する人を失ったブラックソーンは鞠子の死を嘆く。
「可哀想な鞠子、君には秋の季節が来ないと前から知っていたのだろう」
ブラックソーン(第59章)
四つ目の大きな変化は、関ヶ原合戦。テレビシリーズはこの戦いを血をこぼさないような平和な戦い(第10話)のように描いているが、小説が描く関ヶ原合戦は血まみれだ(61章)。戦いが終わった後、石堂は首まで土に埋もれてそのまま残され、3日後に死ぬ。戦いのシーン自体は小説もシリーズも同じく短いが、小説の方はグロいバイオレンスと虎永の勝利をかけて戦って死んだ武士をより詳しく描いている。

夢の中の夢
一つシリーズの方が良く描いていたと思った点:虎永が将軍となりたいという意志。シリーズのフィナーレは微細なアプローチを使っている。藪重が切腹をする準備を整っていると、虎永にずっと将軍になるつもりだったかを問う。虎永はニヤッと微笑み、「死人に先々の話をして何とする?」と答える。それを聞いた藪重は素早に自分の腹を切り、虎永は彼の首を斬り落とす。しかし、小説での虎永の意志はより強く書かれている。
「これこそ目指して戦ってきたのだ。この国を継ぐ者は私一人だ。私は将軍になる。王朝の始まりとなったのだ。」
虎永(第61章)
結局は、虎永の秘密を隠しているかのような笑顔や遠回しの答えが存在しない小説では、彼の秘密の心に隠されている真実を覗くことができない。彼は自分の夢を小説でもっとダイレクトに主張しているが、何を目指して頑張っていた理由のサプライズ感が失われる。テレビに現れる虎永はより賢くて鋭い性格を持ち、視聴者もその虎永を観ている方が楽しいと思う。全体的に虎永の計画が少しずつ明かされるプロセスをシリーズで観ている方が小説で読むよりも面白かった。

最後の評決:読むべき!
ジェームズ・クラベルの作品は完璧ではなく、多くの登場人物(特に女性のキャラクター)はシリーズに比べて展開が足りない部分もあったが、50年前に所載された小説にしてはまだ良い方だった。酷い差別的な言葉や態度、固定概念もなく、クラベルが作り出す世界は残酷で美しい。二つの言語、二つの文化、二つの別々の世界を上手に描いている。
しかし小説は非常に長く、退屈になってしまう場面もある。1,000ページを超える小説を何週間もかけて読むより、10話のテレビエピソードを観る方が楽だと思う人がいてもおかしくない。とはいえ、『SHOGUN 将軍』を観てその世界のファンになった視聴者、より登場人物を間近で知りたいと思ったファン、是非原作の小説も読んでみてください。小説を読むことでシリーズのストーリーをより深く理解できるうえ、シリーズを再び観ればその美しいディテールをより高く評価できるでしょう。是非小説も体験してみよう...ね?
「私が勝ったら、いや、勝った後にやるべきことがたくさんある。我々はとても予想通りの人間だ。」
虎永(第61章)
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